今から食われるフルーツと、今から凍らされるご飯たち。フルーツのある生活は満足度高いし、凍らせたご飯がある生活は安心感ある。
今日OZの本が届いたっぽい。ポストには行けなかった。入ってるだろう。明日が楽しみだ。
やりたいことリストをたくさん書けた試しがない。"金があれば" "無料なら" やってみてもいいかな。と思うことはあるが、金が減るなら別にやらなくてもいいと思うことが多い。そういうのでも書くといいとか言われているから書いたときもあったが、一向に叶っていかないので意味あるんかこれ?と思い辞めた。
極貧時代を過ごした者は分かると思うが、極貧時代を抜けても金にシビアなのが抜けない。使うのが嫌なわけじゃない。人の結婚式とか飲み会とか旅行とか、行けるようになってうれしいのよ。全然ふつうに。でもそういう必要経費でも、使った分はどっかで支出抑えないと、たとえば美容室今月行くの辞めよ、服買うの辞めよ、とか思ったり、しませんかねぇ。別にする必要ないのに。良いことかもしれんけどな。人と一緒だったり人に使うものだったりは使うけど、自分一人のことには使いたくないみたいな。使いたくないわけでもないな、なんか申し訳ねぇみたいな気持ちになる。なんだ申し訳ねぇって。いつ金がなくなるか不安なんかな心のどっかで。そりゃ当たり前にみんな怖いか。うちのひぃばあちゃんはボケてしかも寝たきりで、殺してくれ申し訳ない死にたいと毎日毎日泣いて叫んで、それ以外はお経をずっと唱えていた。耳が遠いから全部声が大きかったし、私はそれを部屋で爆音で音楽を流したり、ピアノを弾いて聞こえないふりをしていた。まぁ全然聞こえるんだけど。
しっかりしてるうちに老人ホーム的な、介護士さんがいるマンション的なところに住みたいなとか思うけど、いくら金があればいいか予想したところでわかんないもんな値上がりしてくんだろうし。まぁなんかそういうことだ。みんな不安だよな。
子を作る人は、穏やかに死ねる前提で新たな人間を作るのだろうか。純粋に昔から疑問だ。ひぃばあちゃんの姿が消えない。自分の学生時代の毎日の緊張感。社会人になってからの金がないとなんもできない絶望。気力ふりしぼって行ったハローワークで「まだ若いのにこんな簡単な求人に応募するなんてよくない」と説教される。市役所に年金の控除の申請した帰りに出口から男が追いかけてきて◯万円でどう?と声をかけられて死にたくなったことはあるか。いや、誰にも感じてほしくないな。親の教育でどうにかなると思えないし、とてもじゃないけど人間を作りたいと思えない。どういう人生を歩んだら純粋に子供が欲しいと思えるのだろう。一回だけ体験してみたいな。あ、やってみたいことじゃん。100無理なことだな